21歳で起業して月収800万稼いだ僕の半生を語る。そこで味わった人生の絶望と希望。

僕(@yukithaihalf)は大学在学中に月800万円を稼いでいましたが、人生は変わりませんでした。
寧ろ、お金に人生を壊されかけました。そんな中、「ある事」キッカケで僕の人生が動き出したんです。そんな僕のプロフィールは2万文字となってしまいましたが、夢を諦めそうな人、自分はダメだと思い込んでる人、勉強が苦手で将来が不安な人、生きる意味が分からない人などは騙されたと思って読んで欲しい。
きっと「人生を見つめ直すキッカケ」になると思います。

借金取りから夜逃げした10歳の日

1992年3月20日、神奈川県横浜市磯子区、
僕はプライドが高く男前でおじいちゃんのリフォーム会社で働く父、そして子供思いの気の強い美人なタイ人の母の元に3人兄弟の長男として生まれる。

画像:左から(祖母)(母)(父)

僕は優しくて泣き虫な子供だったらしい。
家が貧乏だった母は高校には行けずに家族の為に16で働き始め、21歳で僕を生んでからずっと3人の子供を育ててきた。
そんな「お金が無い事がどれだけ苦しい事」なのかを知っていた母は小さな頃から僕に「お金持ちになるんだよ」と言い聞かせ、僕は「大人になったらママに大きな家を買ってあげる」と約束した。
父は典型的な仕事人間で、文字通り土日もほぼ休まずに仕事をしていて、素面の時は謙虚で誰よりも気を使えるとても優しい父だったが、お酒が入ると人が変わったように怒鳴り問題ばかり起こしていた。

おじいちゃんは当時リフォーム会社を経営していた。小さい頃は横浜の中華街にお爺ちゃんの会社がリフォームを手掛けたお店に良くご飯を食べに行った思い出がある。

(中華街の大きいお店はほぼお爺ちゃんの会社がリフォームしたらしい)

画像:お爺ちゃんがリフォームを手がけた中華街の萬珍樓

出典:http://blog.livedoor.jp/morioka8man/

出典:https://www.manchinro.com/

良いときは2週間で2億円を売り上げたり、王貞治と会食したり、マカオのカジノ王だったスタンレー・ホー(2018年の資産額が約3300億円)のクルーザーパーティーに参加するくらい事業で成功していたが、バブル崩壊と共におじいちゃんの会社が倒産した。

そこで働いてた父も仕事が無くなっただけではなく、おじいちゃんの借金が父にも降りかかり、裕福だった家族は一気に貧乏生活を強いられる事となった。

当時の僕は知らなかったのだが、お爺ちゃんにお金がある時は親戚みんな会いに来ていたのに、お金も住む家も無くなってからは親戚中がお爺ちゃんを邪魔者扱いする様になり、お爺ちゃんは鬱病になっていた。
そんな中、心の優しい母が唯一お爺ちゃんを家に迎え入れ、匿うことになった。

父は一家心中も考えたらしいが僕たち家族は借金取り(ヤ●ザ)から逃げる為にお爺ちゃんを連れて夜逃げをする事になった。

「ユーキ、引っ越しても大丈夫?」と、母は申し訳なさそうな顔をしながら当時10歳の僕に問いかけた、僕は心の中で嫌だと思っていても「うん」と答えた。思えば当時から人の顔色を伺いながら生きていたんだなと思う。

16年前のあの夜、僕ら家族6人は荷物を全てトラックに積んで夜逃げをした。

笑顔でご近所さんとお別れした時はずっと涙が出なかったのに、出発した後の車の中、家族全員で泣いていた事を、今でも覚えている。

その後、仕事で使う為の20万円の軽自動車ですらローンが通らない状況だったが、父は死ぬ気で働いてくれた。
その甲斐もあって、朝昼晩たこ焼きだけの日もあったがどうにか家族は生き残った。

イジメられる為だけに通った高校

しかし高校受験の時、受験票を無くすという事件を起こして志望してた高校に落ち、両親を絶望させ、公立に行けなかった僕は片道1時間かけて偏差値40ちょっとの横浜市内の私立に通う事になった。

今思えば、その頃からユーキの落ちこぼれ人生が始まった気がした。

画像:高校生の頃の僕(入学直後の写真)

僕は高校時代の3年間、俗に言う「いじられキャラ」になってしまい随分と消耗した。
自分を犠牲にしてまでも、笑わせるために体を張った為だ。

先生にみんなの前で一発芸をやらされたり、廊下で柔道技を掛けられたり、母が作ってくれたお弁当を食べられ、財布からお金も抜かれたが怒らずにニコニコしてやり過ごした。
僕が怒って場の空気が悪くなるより、僕が我慢してみんなが楽しむ事を優先したかったからだ。

苛めっ子グループに学ランを取られた時に一度だけ先生に相談した事があったが、真面目に話も聞いてもらえず「お前が悪い」とだけ言われ、トイレで泣いた日もあった。

そして、今でも思い出すと辛いエピソードがある。

当時、ニキビがそんなに無かった人には伝わらないかもしれないが、思春期だった僕は大量のニキビでとても、とても、とても悩んでいた。

みんなに自分の肌を見られるのが嫌だったし、自分と話す人はみんな自分のニキビを見ていると思っていた程だ。

そんな中、静まり返った小テストの最中に、前の席に座っていた苛めっ子は僕の回答をカンニングする為に振り返り僕の顔を見た。すると何を思ったのか、大きな声で

「なんでユーキの顔ってそんなにニキビがあるの!?きったねー」

と大きな声で言い放った。

僕は「クラスに1人だけ裸で座らせられる拷問」を受けている様な気分だった。

クラスのみんなのクスクス笑う声が聞こえてくる中、僕は怒りと恥ずかしさをグッと抑えて、

「ははは…俺が知りたいわ…!」と声を出した。

今だにあれ以上の「人の精神をぶち壊す言葉」は聞いた事ないし、あんなに人の気持ちを考えられない人は永遠に現れないだろうし、永遠に現れないで欲しい。

その後、僕がプロアクティブ(ニキビ治療の洗顔料)を使っている事を知った同級生の中には僕の事を「プロアクティブ」と呼ぶ人も出て来た。

(タイなら安くレーザー治療でニキビの後を消せるので悩んでる人がいたら僕に相談して欲しい)

相手がイジメてるつもりは無かったとしても、自分の中では「完全なイジメ」だった。

(別に虐める側、虐められる側のどっちが悪いって話をしたい訳じゃなく、今では「そいつらを見返してやりたい」という気持ちがとてつもないエネルギーになったので僕は感謝している。)

高校3年間、僕はイジメに苦しんでいる事は誰にも言わなかった。

学校ではかなりストレスが溜まり、唯一ゆっくり出来るのが家だったが、
父に少しでも気に触る事があると呼び出され、酷く酔ってる時には殴られた。
母と弟が泣きながら止めてくれた日の事を思い出すと今でも心が苦しくなる。

昔はそんな父の事が理解できなかったけど、今となっては家族の為に身を削って働いてくのは相当ストレスが溜まっていたのだろうと思う。
(子供に手を出すのは良くないけど…)

この頃は「死ぬのが怖かったから生きていたけど、人間としてもう一度生まれたいとは思わない」程に人生に疲れていた。

父は予備校に100万円募金した。

そんな不幸な人生をおくっていた僕でも、普通の人生を送りたく無いという気持ちから、クラスメイトのほぼ全員が推薦入学で進路を決めていく中、同じクラスだった彼女と2人だけで一般入試をする事を決心した。
何故なら「良い大学に行く事が人生を変える唯一の方法」だと信じていただからだ。
父親に「良い大学に行きたいから予備校代を出してください」とお願いして高い授業料(合計約100万円)を払ってもらい、東進ハイスクールに通いながら夜遅くまで勉強する日々が続いた。

自分なりに必死に努力して、嫌いだった勉強に本気で取り組んだ。

推薦入試で進路が決まった生徒たちの気楽なムードの中、通学中も英語のCDを聞いていたし、学校のお昼休みにも勉強した。

やれる事は全部やった。

画像:僕が通っていた予備校

出典:http://www.judo-ch.jp/

が、全くと言って良いほど模試の点数は上がらなかった。
周りがドンドン新しいことを学んでいく中、僕だけ同じ授業(DVD)を何度も何度も見返した。
どんなに頑張っても無理だった。

学校では僕が受験勉強をしていると、授業中に意地悪な先生に「おい、受験勉強してるなら流石にこのくらいわかるよな?」とよく質問をされ、答えを間違えると恥をかかされた。

どんどん自信も無くなって行き、気づいたら予備校に向かう電車の中でボケーとただ窓を見つめながら始発駅と終着駅を行き来している日が続いた。

画像:僕が見ていた風景

そして僕は勉強を諦めた。

(今思い返してみると、親戚や僕の家には大学を出た人が1人もいなかった事も含め、根本的な勉強の仕方がダメすぎた気がする。)

「今度こそ合格してくれる」と期待していた両親の気持ちを裏切る事が悲しくて悔しくて、駅のトイレで涙を流した。

結果は「不合格」、だけど「合格」した受験

最後の体育祭の日、なぜか父から「一般受験厳しそうだって担任から連絡あったけど、推薦で入った方がいいんじゃないのか?」と電話が掛かってきた。

親父には受験勉強は順調だと報告していたが僕は担任の先生には期末テストなどの点数を見られていた為に僕の実力はバレていたので当然の事だった。

僕は「そんな事ないし、合格できる自信はある」と嘘をつき、息子の能力を見くびられたと思った父は腹を立てて「息子の事は息子に決めさせて下さい」と担任に伝えた。

絶対に受からないとは分かっていたけど「長男としてのプライド」や、「親の期待」、「推薦入試だけは違うという見栄」を背負っていたので諦める事などできなかった。

そして僕は後には引けなくなった。

受験当日、本気で「解いたってどうせ受からない」と思っていた僕は回答用紙には名前を書いた後、適当に答えを書いて誰よりも先に問題用紙の裏に絵を描いていた。
帰り道、友達にテストがどうだったかを聞かれると、話について行けない事を隠すために必死に他の話題を振った。

月日は流れて結果発表の日、僕の彼女は「不合格」という文字を見て号泣していた一方、結果が最初から分かっていた僕は「不合格」という文字を見ても特に悲しさは無かったので涙なんて一滴も出てこなかった。

どちらかと言うと

「本格的に人生終わったな」

って気分だった。

親に恐る恐る報告すると、「はぁ・・・これからどうするの?」と呆れられ、
今後の人生の不安から余裕のない人間になってしまい彼女を頼りにし過ぎたせいか、その後すぐに「重い」と言われ彼女に振られた。

未来も大切な人も失った僕は、自分の「尊厳」を守るために、周りや予備校のチューターに「合格した」と嘘をつくと、予備校の壁には僕の名前の下に「〇〇大学合格」と並んだ。
罪悪感はあったが、この「嘘」のお陰でズタズタになった心を完全に壊さずに済んだ気がした。

僕は「大学生になった友達の陰で社会から消えて行くのかな」と思いながら、
不合格だった僕が、不合格だった同級生に「合格の秘訣」を語った。

画像:いつも一緒に受験勉強してた同じ予備校メンバーと受験後にとったプリクラ

ここにいる四人も自分が合格したと今でも信じています。

(コレを読んでるだろう●川、●山、●田、●り●り、本当にごめんなさい…)

浪人生活、僕は一家の母となった。

月日は流れて卒業式も終わり、浪人生になった僕には金銭的な問題で予備校に通うという選択肢は残っていなかったので地区センターで毎日勉強した。

当時、途方に暮れていた僕には浪人仲間の親友がいた。
彼もまた「勉強は出来ないが、志だけは高いという部分」では似ている二人だった。
その親友に「お金持ちになりたいけど勉強が苦手でどうしようもない」と悩みを打ち明けると、「人生は学歴だけじゃない!!」と強く説得され、自己啓発本を何冊か渡され食い入るように読んだ。
その考え方に感銘を受けた僕は、「自分の人生は自分で切り開くものだ」と確信し、気づいたら「起業家」を目指していた。

18歳のことだった。

心機一転、頑張ろうと思っていた最中、当時中学生2年の弟、高校生1年の弟、そして浪人生の僕を残して、「タイで事業をする」とだけ伝えられて母親が家から居なくなる。
最初は1ヶ月で帰ってくる話だったが、全然帰っては来なかった。

それからは僕が母親の代わりに夕飯の準備、洗濯、弟のお弁当作り、不良だった弟が問題を起こせば親の代わりに学校まで行き謝りに行った。

「お兄ちゃん可哀想だね…」と弟の担任に言われた時は惨めに思われた事が悔しかった。
そんな中、家事が完璧に出来ないと父に何度も怒鳴られた。
理不尽だと思った僕は母を恨み、親友に相談する時には泣いてしまう程だった。
(あの頃は親友のおかげで乗り越えられた壁がいくつもあり、今でも心から感謝している。)

その頃から勉強、家事、ローソンでのバイトの両立で僕の手が回らない分は母の親友(弟の同級生の母親、以降「K子さん」)が家事を手伝ってくれるようになった。

2人で家の洗濯をしている時、「もうお母さん日本に帰ってこないのかな?」とK子さんに言われた時は、僕たちを置き去りにした母へ文句を言うように「帰ってこないと思います」と言うとK子さんは無言で何かを考えながら頷いていた。

今でもこの発言に関してとても後悔している。


なぜなら、この一言が原因で後の「家庭の崩壊」を招いた可能性があるからだ。

画像:親友たちと行った小田原城での花見

勉強をすれば、父が怒る。

ある日、1日10時間の受験勉強をした事を褒めてもらいたくて父に報告したところ、「高い学費を払って大学に行ったとして、将来いくら稼げるんだ?本当に意味があるのか?」と酔っていた父はイライラした口調で僕に言い放った。
その時「勉強を頑張る息子の姿」を見せる事は親を喜ばせると信じていた僕は、ショック過ぎて何も言えなかった。
(当時父も母の事業へかなりの大金を出資していたので数百万円の学費を払う事を考えただけでも嫌になっていたのか、本当に自分の事を考えて言ったのかは謎。)

その後、色々調べたが父親を納得させられるだけの答えが見つからず「当たり前のように日本の大学に行く事への疑問」が生まれた。

当時流行っていたmixiで「高級車=成功の証」だと思っていた僕は超高級車に乗ってる人たちに片っ端からメッセージをして見た。

画像:当時の頂いたメッセージの一部

(当時の夢の1つがイギリスの高級車であるAston Martinを買う事だった)

いろんな人の意見を聞き、自分なりに考えた結果、「これからは学歴じゃなくて、ビジネススキルだ!」と思った僕は、バイトをしながら「中小企業診断士」の資格を取るために専門学校に通おうとした。

しかし父に「そんな胡散臭い職業で食っていける訳無いだろ」と言われ、どんなに説得しても認めてもらえず、挙げ句の果てには「そこの学校に電話させろ!俺が話しつけてやる」と言われ、喧嘩になる程だった。

泣きながら説得した結果、どうにか許可を得ることが出来たのだが、
おじいちゃんが事業に失敗した時に踏み倒した借金が原因でローンが通らず諦めた。
何をやろうとしてもうまく行かない。

自分は「世界一間抜けでツイテナイヤツ」なのかもしれないと疑う程だった。

進路で親父と揉める日々が続いたある日、「人と違う人生を生きよう」と決心した僕はASEANや母親の事業を継ぐ事なども視野に入れてタイの大学に進む事になった。

(「タイに行けば大金持ちだから、芸能人と結婚できる」と父に騙された事がタイに行く事を決めた一番の理由だったなんて誰にも言えない)

出会いの後は別れがある。それは当たり前の事だが辛い事。

当時、親友以外にも気の合う友達が地元には数人いた。

画像:地元の友達

(プリクラって改めて見ると盛るっていう次元超えてる気がする)

人生で誕生日サプライズをされた事のなかった僕は、誰にサプライズをされる事が夢の1つだった。

「サプライズされたいなら、先ずは友達の誕生日サプライズをしよう」

と思い、地元の友達五人分全員のサプライズを企画してはやり続けた。

画像:けいおん!のあずにゃんが好きだった親友の為に5時間かけて作ったサプライズケーキの画像と当時の様子

(涙目になって喜んでくれた)

画像:別の誕生日パーティーでも4時間かけてらき☆すたの、こなたが大好きな友達に誕生日プレゼントを作った

その甲斐もあってか、地元のグループはかなり仲良くなり、遂に僕がサプライズされる番になった。

三月に入り、自分の誕生日まで数週間と迫った頃に悲劇は起こった。

東日本大震災

僕の実家は地震による被害はそこまで無かったのでなんとも無いと思っていた矢先、原発が爆発し全てが変わってしまった。

「放射線が横浜にやって来る」と聞いた父は僕たちを非難させる為に事前に何も聞かずに子供三人分のタイ行きの航空券をとった。

こうして、急遽親友と他の友達たちが準備してくれた誕生日パーティーの前にタイに行く事が決定してしまった。

僕はせめてフライトを誕生日の後にしてもらえないと頼んだが、父は「絶対にダメ」と言った。
友達を置いて自分だけタイに逃げる事が辛すぎて、声が出るほどに泣いたし、親友も貰い泣きをする程だった。
(後から父から聞いたのだが、親友に僕のいないところで「ホテルも取ったし最後に誕生日パーティーだけはさせてください」と頼まれたが、父は断っていたらしい)

フライト前日の夜、親友から「最後にみんなでスーツを着て呑みに行こう」と誘われ、その帰り道の途中で僕はみんなから誕生日プレゼントにする予定だった腕時計を貰った。

僕は泣きながら

「次会うときまでには絶対大物になる」

と約束し、お別れをした。

最後にみんなで撮った写真の裏に友達一人一人に手紙を書き、フライト前日の深夜に弟を自電車の後ろに乗せて友達の家を一軒づつまわりポストに入れた。

画像:その時送った写真(親友が大切に保管してくれてました)

次の日、父に見送られ、搭乗ゲートの前で「ママを頼むぞ」と言われ、

みんな泣きながらお別れをして、兄弟三人でタイへと飛んだ。

母との再会、しかし母は…

タイのチェンライ県に到着する

チェンライはタイの最北部に位置する、ミャンマーやラオスの国境沿いにある県。

ここが母の実家で、あの洞窟に閉じ込められた13人で世界中で話題になった場所である。

ツイート:その事件と母の活躍を載せておきます

チェンライの場所(Google Map)

一年ぶりに母に会えるので僕と兄弟2人は会ったら何を話そうか考えていた。

「なんで僕たちを置いて行ったのか」「どうして帰ってこないのか」・・・

しかし到着ロビーで僕たちを待っていたのは

「今まで見たこともないほど老け込んだ母」だった。

顔はゲッソリとして目の下には1ヶ月間徹夜したかのようなクマができていて完全に別人だった。

「子供を置いて自分勝手やってる母」だと決めつけて悪く言ってた自分たちは、母の顔を見てからはそんな文句は一言も出なかったし、むしろ申し訳無い気持ちになるくらいだった。
日本にいた頃は「若くて美人」と言われ続けた母を傷付けたくなかったので三人でその事に関しては触れない様にする事を約束した。

色々と話してみると母は親戚に騙されて、想定の3倍ほどの資金が必要になって後に引けなくなった母は莫大な借金をしてしまい、その利息の返済で苦労していたようだった。

借金の金額はなんと約2000万円、

自分の想像を絶していた金額に僕は騙した親戚を心から恨んだ。

しかし当時はバイトで貯めた貯金もそれほど無く、何もしてあげられなかった。

画像:タイに到着したばかりの兄弟とタイの親戚

画像:タイでやっている母の養豚場に初めて来た時の写真

ちなみに想定の3倍の規模になった事もあり、チェンライ県で一番大きい養豚場になった。

「1日300円生活」で生き残った大学生活

僕はタイのチェンライ県にあるメーファルワン大学に通う事になった。(弟2人は原発のニュースが落ち着いてきた頃に帰国した)

タイで一番美しい大学として有名で、授業は全て英語で行われ、いろんな国から生徒が集まって来た。

多くの外国人がタイ語学科を選んでいたが、起業家になりたかった僕は経済経営学科を選んだ。その理由は「語学なんて独学してタイ人と話してれば覚えられるだろう」と自負していたからだった。

そんな中、歴代3人目の日本人だった僕はタイ人からとても人気で、どこに行っても話しかけられるくらいでアイドルにでもなったような気分だった。

画像:僕が通っていた大学の風景

http://en.mfu.ac.th/about-mfu/history.html

大学の場所(GoogleMap)

しかし、母の事業はうまくいっていないので学費を払うのもギリギリだった。

なので僕は家賃が月1000バーツ(3300円)程のエアコン無しドミトリー(四人部屋)に住むことになり、母が一年分をまとめて払ってくれた。

画像:学生寮の部屋の様子

(この写真を見た瞬間に深夜目を冷ますたびに、目の前のベッドのゲイの方の謎の熱い視線に怯えていた事を思い出した(笑))

出典:https://ja.foursquare.com/v/f4-dormitory/

当時は知る由もなかったが、ある事が原因で父からの僕に対する仕送りはほぼ無かった。
たまに送られてくる仕送りは全て母の事業の赤字を埋める為に使っていたので、
僕は母に通学用の親戚が使ってないボロバイクと、お小遣いとして毎月4000バーツ(約1万3千円)を渡されて、食費、バイクのガソリン代など、すべてこれでやりくりした。(ちなみに同級生のタイ人は平均で自分の2倍程貰っていた)

画像:分かりやすいグラフ

1日100バーツ(330円)を目安に生活してた僕は、
学生専用のフードコードだと1食35バーツ(105円)で食べれたので1日2回通い、
残りの30バーツで飲み物を買い(×30日で3000バーツ)、
そして余った1000バーツ(3300円)でガソリンを入れて残った数百バーツだけが自由に使えるお金だった。

現在、僕はタイ飯だけを食べ続けても全然大丈夫だが、当時は日本料理やファストフードを「食べたくても食べられない」という状況だったのでとても苦しかった。

タイ飯生活に我慢できなくてデパートでマクドナルドをセットで頼むと、月末にはMAMAという5バーツ(約18円)のインスタントラーメンで飢えをしのいだ。

あの時のビックマックの味は今でも忘れない。

画像:MAMA

https://www.qoo10.sg/

それくらいお金がなかった。

当時の事を母に聞くと『ガリガリになった僕を見て可哀想だと思ったけど、あれ以上渡せるお金も無く、ユーキなら絶対に苦労すればするほど「自分でどうにかしよう」という気持ちになるだろうと信じていた』とふり返った。

画像:月に一度食べれる外食を楽しんでるガリガリな僕

もう一つ苦労したのが「言語」だった。

英語は得意な方だった僕でも、流石に喋る事は出来なかったし、タイ語だって「おなか減った」「眠い」「我慢できない」の様な率直な欲望を伝える言葉は知っていたが、それ以上は全く分からなかった。

授業で分からないところがあっても、どうやって聞けばいいのかも分からないし、タイ人や韓国人、ミャンマー人とお酒を飲んだ時も1人だけ話題に付いていけなかったのは、話で笑いをとるのが得意だった僕にとって物凄くストレスになった。

そんな中、タイ人の彼女を作ることがタイ語を学ぶ1番の方法だと聞いた僕は、「タイ人の彼女がいたらいいなー」と思い、
友達の紹介で同じ大学の女の子とデートに行く事になったが、バイクしか持ってない自分を陰で「まさかあのバイクで映画見に行くわけじゃないよね?笑、それともバス?笑」と笑っていた話を聞いてプライドがズタズタになった事もあった。
(決してタイ人女性みんながこんな事を言う訳ではないので勘違いしないでください。)

画像:一番手前に座っている女の子に言われました・・・(笑

そんな中、僕の一番の支えになった彼女に出会う。
(運命的出会いだったけど話すと長くなるので割愛します)

僕は狂った様にその彼女に惚れ込んだ。

僕たちは出会ってから5日で付き合う事になり、この数ヶ月後に家賃2000バーツ(約6700円)の超ボロボロのアパートに2人で割り勘で出して同棲する様になった。

純粋だった僕は、彼女が見てない時ですら他の女の子にFacebookや電話番号も教える事は無くなり、ずっとタイで心細かった僕にとって、彼女と過ごす時間がぼくの唯一の幸せな時間だったし、彼女と食べるご飯はなんでも美味しく感じたし、どこで何をしても楽しかった。
僕が作業に集中してご飯を食べ忘れるといつも何も言わずに買ってきてくれたし、何よりもいつも隣にいてくれるので心の支えになった。
お金はなかったけど2人で支え合ってどうにか頑張った。

もちろんタイ語もドンドン上手になっていった。

画像:付き合い始めの頃の写真

ちなみに入学当時の僕が通っていた大学のミスユニバーシティーに選ばれたのが彼女だった。

(お金の無い僕を愛してくれた彼女の存在は僕の中で特別だった)

画像:彼女と動物園にいった時の写真

画像:僕はゲイからも人気者でした。

画像:その頃ミャンマー人グループと撮影した集合写真

家庭崩壊

数ヶ月後
仕事は忙しかったが、子供や父に会いたかった母が数年ぶりに日本に帰る事になった。
しかし、そこに待っていたのは母との感動の再会だけではなかった。
久しぶりに日本の実家に戻った母は勘が鋭いのですぐに父の異変に気づいた。
そして父は隠し事が下手くそだったのもあり、母は嘘を見破り全てを知る事になる。

父は母の親友(K子)と浮気していたのだ。

真実を知った母はあまりのショックに更に精神的に追い込まれる事になった。
その報告を聞いた僕は、僕が日本にいた頃に父が「K子さんと浮気しようかな(笑」とふざけた口調で言っていた事を思い出した。
僕は冗談だと思っていたが、冗談じゃ済まされない状況になっていた。
あの時「帰ってこないと思います」と言った事を思い出して悔やんだ。

そして父が仕送りをしなくなったのも、K子とその息子と娘が父の会社で勤めるようになり、父が出した利益はほぼK子の家族に流れていたのが原因だった。
何よりも、父が実の子供じゃなく他人の子供を優先していた事実を知った僕は本当にショックだった。
母は「自営業の(僕の)父がいつか老後にタイに移住できるように」と父の事を思ってタイでの収入源を作る為に頑張ったが、現実は思い通りに行かず、むしろ最悪な状況だった。

タイに戻ってきた母は「親父の浮気」と「事業が大赤字」という二つの問題で精神的に疲れ果て、毎日僕に泣きながら電話してきた。
いつも笑顔で優しく僕を励ましてくれていた母が泣いている声を聞くのは本当に辛かった。
何もしてあげられない僕は涙を必死に堪えて「おれがめちゃ稼いでどうにかするから!」と母親をこれ以上不安にさせないように励まし、電話を切った後にはどうにかしようと必死に考えた。
これが泣き虫だった僕が初めて涙を堪えた瞬間だった。
悔しくて、悔しくて、それまではドラマや漫画内の物だけのものだと思っていたが、壁を殴るというものを始めて経験した。

赤くなった拳を見つめながら「もう誰も頼れないし、自分でどうにかするしかない」と覚悟を決めた。

本当に辛かったけど、その時は彼女が側に居てくれた事が心の支えになっていたんだと思う。

画像:野犬と戯れてるところを彼女が撮影

時給100円 or アフィリエイト

とりあえずバイトをしようと思い、当時タイ語が完璧ではない僕ができるバイトを探してもらったのだが、日本人の先輩から紹介されたのは牛乳屋さんで座ってお会計をするバイトで「時給は30バーツ(約100円)」だった。
それを聞いた瞬間、タイでバイトは選択肢から無くなった。

どんなに考えても、タイ語が完璧じゃ無い僕がそんなに簡単にお金を稼ぐ方法なんて1つも無かった。
その頃から家族の心配や将来の不安がピークになったせいか、もがき苦しむレベルの「謎の偏頭痛」に悩まされ深夜に彼女に連れられて夜間病院に駆け込む日もあった。

それでも必死に色々調べでは、自分の頭の中で考えた。
結局、僕はMBAを取るプランや事業をやるプランなど色々考えた結果、今すぐにできるアフィリエイトを始めてみる事にした。
パソコンがボロボロ過ぎてスペックが足りない事を母に話したところ、昔から貯めて来た商品券があるらしく、それを掻き集めて「Macbook Pro」を買ってもらった。

手元に届いた時、学生寮にいたルームメイトと一緒に「おぉー・・・」と言いながら見惚れていた事を覚えている。

画像:Macbook Proに浮かれている自分

そしてテザリングができる990バーツのケータイを買って、そこからwi-fiを飛ばして作業をした。

画像:その時買ったのがこんな感じのケータイ

出典:https://news.pdamobiz.com/

これが僕とアフィリエイトの最初の出会いだった。
しかしそんなに簡単に稼げるわけもなく、授業の前などに必死に記事を書いて更新してみたが1円も稼げなかった。
自分の知識だけじゃ限界だと思った僕はネット上で知り合ったアフィリエイトで月に100万円以上稼いでる人に誘われ、その人が運営しているサイトの記事を書かせてもらう事になった。
社長は「朝から晩まで記事を書きづつけてください。月末にそのクオリティーと頑張り次第で報酬を決めます」と言った。

「ここで稼げなかったら死ぬしかない」と思った僕は言われるがままに記事を書き続けた。

しかし、そこはあまりにブラックだった。

1日中仕事をさせられ、ゆっくりご飯を食べる時間すら無く、記事を書き上げるのが少しでも遅れると5分ごとにスカイプには「まだ?」と連続でメッセージが届いた。
いつしかスカイプの通知音がトラウマになり、通知が来る度に体が「ビクッ」となる程だった。

母の事を思い、死ぬ気で朝から夜まで記事を書き続けた・・・。

が、給料日まで残り5日と迫ったある日

何も食べてない筈が、謎の吐き気に襲われ、何故か目から涙がポロポロ落ちて来た。

僕が壊れた瞬間だった。

放心状態だった僕を隣で見ていた彼女は目を赤くしながら「もうやめてよ。こんなボロボロなユーキを見てる私も辛いし、ユーキが先に死んじゃうよ。そんなに本気でやるなら自分のサイトを作ってやりなよ!」
と言われ、「確かにここまでやるなら自分のサイトをやった方がいいのかもしれない」と気づくキッカケになった。
「はい」とだけ言って記事を生成する機械になっていた僕は彼女に救われた。
僕はその日の仕事を終わらせてから、パソコンをいつもより強めに閉じた。
その夜、彼女に連れられて、久しぶりにご飯をお腹いっぱい食べた僕は社長に謝って辞めさせてもらった。

1日中働いた僕の日給は30円

仕事を教えて頂いたという感謝の気持ちはあったし、単純に自分の仕事が遅いだけかもしれなかったので「給料はいりません」と伝えて辞めた。
しかしグループチャットには辞めた僕への誹謗中傷が流れてきた。

「あれだけ意気込んでたのにすぐ辞めたね笑」
「最近口だけの奴多いよな」
「コレができなくて何が出来るんだろうね?笑」

本当に、本当に、本当に悔しかった。
言い返したかったけど、ここで言い返しても意味は無いので絶対に結果で示すしかないと分かっていたのでグッと堪えた。

その時、僕は彼らを絶対に見返してやると誓った。

その後、自分のサイトを立ち上げる準備に掛かった。
変に完璧主義だった僕はデザインにこだわり過ぎてたのと、ど素人過ぎてブログの管理画面で直接デザインを編集していたので、
「デザインを1px単位を少し変更する」→「更新ボタンを押す」→「サイトのデザインをチェックする」を無限に繰り返していた。
二ヶ月後、気の遠くなる作業だったが気力だけで完成させた。
そしてサイトの出来に満足した僕は、バイトでやった事をそのままやれば同じように100万円稼げると思って、記事を入れ初めてみた。

しかし1日中朝から夜まで作業して稼げるのはタイのバイト代以下だった、僕は絶望した。

「来月から月に100万円稼げそう」と友達に豪語していたので余計辛かった。
自信を喪失した僕は親友に「サイトを作るのに2ヶ月掛かったのに全然稼げないからやめるかも(笑」と慰めてもらうつもりで言ったが、親友は「あんなに強気だったのにもう諦めるのかよ。ダサいな。」と僕を煽った。
プライドに火が付いた僕は「せめて2ヶ月は目をつぶって続けよう」と思いながら地道に更新を続けた。

留学生は学費をアフィ報酬で払う

結局何が正解だか分からなかったので、ひたすら英語やタイ語、プログラミングも勉強しながら、アフィリエイトを続けた。
夏休みには受験勉強の時以上に勉強してやった。
飲み会なんていかなかった。
唯一の楽しみだったデートにも行かなかった。
そんな日が続いた・・・。

その後

月3万円

月10万円

月20万円

と収益が伸びてきて、アフィリエイトで生活費と学費が払えるようになって、母にも仕送りを渡せるようになった。
「焦り」と「不安」しかなかった自分の心に「自信」と「希望」が芽生えた瞬間だった。
ある日、英語を勉強していると「人はいくつもの事を同時にやるより、1つの事を集中してやった方が結果を出せる」という英文を読んだ。

そんな僕は「アフィリエイトで食べていこうかな?」と頭によぎる。
しかし、それだけで食べてくなんて、周りで誰もいないし不安だったので卒業したらやめるくらいの気持ちだった。

ある日母に、アフィリエイトで食べて行く事に関して「不安定だし、こんなので食べて行くなんて無謀だよね?」と話したところ、
「自営業は不安定でいい時もあれば悪い時もある。でもそれは当たり前のことでユーキが本当にそれがやりたいならママは応援するよ」
と言ってくれた。正直反対されると思っていたのでとても衝撃を受けたのを今でも覚えている。

その日から僕は英語やタイ語やプログラミングの教科書をすべて押入れにしまい込んでアフィリエイトだけをやる決心をした。

21才の僕、月収100万円達成

そこからは「アフィリエイト以外無駄」という信念のもと、授業は友達にiPadをプレゼントして出席を取ってもらい、授業に出ないと行けない日はパソコンを広げてはひたすら記事を書いた。

パソコンとともに寝て、パソコンとともに起きる生活が続いた。

画像:作業中に寝落ちした僕を彼女がこっそり撮った写真

楽しそうにお酒を飲んで、毎日パーティーしてる同級生が羨ましかったし、
テスト期間も記事を書かないといけなかったので、本当に苦労した。

アクセスが落ちた日には吐き気を感じる程だった僕は、数字に追われる生活が辛くて、辛くて、途中で何度も諦めそうになった。

しかし僕はこう自分に言い聞かせた、

「今まで嫌な事から逃げ続けてきたけど、ここで逃げたら次はどこで本気を出すんだ?」

その度に高校時代のいじめっ子、僕を応援してくれた地元の友達や親友、車を持ってない事を笑った女の子、仕事ができなくて悪口言ってきた人、そして苦しんでいる母を思い出した。

僕は諦めなかった。

覚悟を決めた僕は、運営サイトを増やすために大学の同級生だった友人に声をかけて仲間に加えた。

母に「商売道具にはこだわれ、絶対にケチるな」と教わったので沢山買った。

画像:ほぼ24時間パソコンを触っていたので、ベッドで作業してる時に寝落ちしてパソコンを落として壊したりしていた。(なので、この内半分は壊れてます)

親には食事の時に何かをしながら食べるのは行儀が悪い事だと教えられたにも関わらず、
ご飯を食べるときは必ず隣にパソコンを置いて食べながら作業をした。
授業中も授業のメモを取ってるフリをしてひたすら記事を書いた。
デパートに行っても常にMacBookAirを左手で持って右手で記事を書き続けた。
映画館でも絶対に1番後ろの席に座ってパソコンを開いて記事を書いた。
ある日はナイトクラブのテーブルでサイトの更新を頼んでた友人と更新を続けた。

画像:さすがに自分でもこの光景はおかしいと思って写真を撮っておきました(笑

テストの直前に、他の人が参考書を開いてる時には僕はパソコンを開いてギリギリまで記事を書いた。

なので彼女が僕を撮った写真でパソコンが写ってない写真はほぼ一枚もなかった。

画像:フェイスブックに残ってる自分の写真を見たところ、大体パソコンを弄っていた。

それから数ヶ月程経ち・・・

僕のアフィリエイトの収益は100万を超えた。

画像:その時の明細

数学を見た瞬間、教室から飛び出て母に電話した。
僕はふざけて鏡の前でセミナーの練習するほど自信に満ち溢れていた。

22才の僕、現金1300万円でバクチに挑む

収益は順調に伸びていき、
数ヶ月後には銀行口座には500万円も貯まっていた。
僕はそのお金をどうするか悩んだ。

実は当時の僕にはスポーツカーを買うという夢があった、何故なら「それに乗って学校に通えばバカにしてきた人も見返せるし、稼いでる事をみんなに知ってもらえる」という単純な理由だった。

お金に苦労した僕らしい夢だった。

画像:ベンツを買おうと思って試乗して来た時の写真

母に相談すると「もう大人なんだしユーキのお金の使い方は自分できめさなさい」と言われ、毎月結構仕送りもしていてある程度余裕も出てきたし、「自分にご褒美もありかな?」と思った。
その一方、お世話になってた先輩に使い道を相談すると「税金の事もあるし再投資するのが一番だよ」と言われた。

その後ひたすら考え抜いた結果

僕は500万円丸ごと再投資する事を決意した。
カッコよく言うとサイトのM&Aをする事にしたのだ。
利益を最大化出来る可能性のあるサイトに営業メール100件近く送った。
大半が無視され諦めかけていたその時、
絶対に売ってくれるとは思ってなかった所から返事が来た。

「1300万円であれば売却可能です。」

心臓がバクバクした。

このサイトを買収できれば更に上に行けると確信していたからだ。

だが、まだお金が全然足りない。

しかし僕には迷ってる暇などなかった。

なぜならモタモタしてたら、他の会社に買収されてしまうからだ。

一週間のやり取りの結果、

「500万円の先払い、残りの800万円は2ヶ月後の7月31日に支払わなければならなく、1日でも遅れた場合は前金は没収で契約は破棄」

という相手にかなり有利な契約を提示された。
お金も足りないし本当に儲かるかも分からないし色々な不安もあったが、時間との勝負だと思った僕はすぐに日本行きのチケットを買い直接契約を結ぶ為に日本に戻った。

契約日前日、問題発生。

契約日前日、僕は絶望した。

契約上では契約日に500万円を振り込む約束になっていたのにも関わらず、

どう計算しても後50万円足りなかったのだ。

キャッシュで50万円用意できる人なんて家族には誰もいないし、僕は体がブルブル震えていた。

頼れる人は1人しかいなかった。

それが親友だった。

「僕は大切な人とはお金のやり取りはしない」と心に決めていたので当初は選択肢に無かったが、追い込まれた僕は思い切って電話してみる事にした。

今やってる事、契約の内容、もう頼れる人がいないことを話すと彼は、

「俺はお前なら絶対に成功できると信じてる。もし貸したお金が0になったとしても俺は後悔しないし、返せなんて言わない。すぐ振り込むわ。」

と言って本当にすぐに50万円を振り込んでくれた。

本当に泣きそうだったし、親友に心から感謝した。

こうして僕は500万円を期日までに集める事ができたのだった。

画像:その時の明細

絶体絶命。人生を掛けた大勝負

契約日当日、待ち合わせのカフェで顔を合わせた瞬間、相手は衝撃を受けた。

「21歳だったんですね・・・。大丈夫ですか?」

相手からしてみてもこんな若者が1300万円も持ってるわけもないと思うのも当たり前だろう。

僕は相手を安心させる為に、

「お爺ちゃんに500万円を渡されて投資をやってみろと言われたので自分なりに考えた結果がサイトのM&Aでして、、、残りの分は自分で稼いだり友達に借りたりしてどうにかする予定です・・・」と言った。

これでもかなり怪しいが、このサイトにめちゃ稼げるポテンシャルがある事を知られてはダメだったので、「バカな奴」を演じる必要があった。

僕は「そもそも、このサイトで多くを稼ごうとは思ってないので生活費が保証されれば良いかなと思っています・・・。」と自信無さげな感じで付け加えておいた。

この時、相手は「下手したらタダで500万円貰えて、サイトも渡さなくて済むかもしれない」と思っていたに違いない。

そうだとしたら僕の戦略通りだ。

こうしてお互いは契約書に判子を押し、僕は目の前で500万円を相手の口座に送金した。

そして残高は88178円になった。

画像:証拠の明細

その瞬間、2ヶ月で残り800万円を集めるミッションが始まった。

「これで失敗したら終わる」

と頭の中で呟き続けながら睡眠時間も更に減らして、死ぬ気で記事を書いた。

そして2ヶ月の月日が流れ・・・

7月31日

振込期日がやってきた。

なんと僕は

残りの800万円をキッチリ集めて、

振込期限に間に合わせる事ができたのだ。

画像:その時の明細

僕はガッツポーズをしてみんなに報告をした。

これが人生初の大バクチに大勝利した瞬間だった。

人生最高!22才の僕は月収800万円

僕はこの後すぐに、買収した1ヶ月40万円の売り上げだったサイトを、1ヶ月600万円まで伸ばした。

そして更に規模を大きくする為に人も更に4人ほど雇った。

すると・・・

気づいたら、大学生だった僕は月収800万円(利益)まで来ていた。

車のディーラーに行っては「これ下さい」と、即決で指をさして車を買って帰った。

好きな服やカバンなんでも買った。

高級レストランで好きな物を好きなだけ食べた。

キャバクラでお金をばら撒いた。

クラブのVIPで騒ぎまくった。

ビジネスクラスに乗ると隣の席のおじいさんに驚かれた。

父に数百万円と、叙々苑でロレックスをプレゼントした。

もちろん、母の残っていた借金約1000万円も一括で出してあげて、

外食の帰り道に思いつきで誕生日プレゼントとして車を買ってあげた日もあった。
めちゃめちゃ幸せだった。

画像:車を購入した時の写真、(左)僕(右)母

画像:お母さんに現金約1000万円(タイバーツ)で渡した時の画像

画像:納車後に調子に乗りすぎて5日目にタイ陸軍将軍とレースした時に起こした事故

僕と仲の良い友達には話したストーリー、聞きたい方がいたら僕に会いに来てください笑

画像:往復30万円の初ビジネスクラス

画像:ヤフオクで10万円で買ったVIPのウルトラ

画像:法人設立記念で弟と行った叙々苑

ツイート:ロレックス渡した時の画像が残ってなかったのでツイートを載せます

この頃は恥ずかしい話だけど、「俺は何でも出来る男だ。誰にも負けない。チェンライで俺が歴代No.1だ」と常に思いながら生きていた。

母は「血が遠い人と子供を作ると天才が生まれるって聞いて、頑張って日本人と結婚したのに、兄弟3人とも全然勉強が出来ないから嘘だったのか…てガッカリしてたけど、やっぱり私の息子は天才だったんだ!!」と言いニコニコしながら喜んでいた。

僕はそんな母の言葉を聞けて心から幸せだった。

周りの人からチヤホヤされて、好きな事を好きなだけできる。
こんな日が永遠に続くといいと思った。

こうやって人は「ドン底」に落ちる。

僕の人生はこのままハッピーエンドで終わるかと思いきや、悲劇は近づいて来ていた。
僕は完全に天狗になり、理不尽な事で彼女に怒ったり、友達と毎晩のように飲みにいったりしてほったらかしにしていた。

ある日、彼女が朝から夕方までずっと仕事をして、夜は遊びに行ってばかりだった僕に対して文句を言い、それがキッカケでかなりの大ゲンカをしてしまった。
彼女は「もう耐えられない、出て行く」と言って出て行った。

いつもの僕なら「ごめんなさい」と言って引き止めるのだが、その時の僕は「いい加減にめんどくさい」と思い、そのまま実家に帰らせた。
その後、落ち着いてきた頃に彼女に電話をすると、彼女は『お父さんが「本当に私の事を大切に思ってるなら、直ぐに迎えに来るはず」って言ってたから、家でユーキを待ってるね』と言った。
でも、お父さんに謝罪するのが面倒だったので、明日迎えに行こうと思った僕はすっかりその事を忘れてしまった。

画像:一番調子に乗ってた時の自分

画像:目立つのが正義だと思ってた頃の車

その時の僕は、お金がドンドン入ってくるので彼女なんかと遊ぶより、友達と遊ぶ方がバカできたし楽しかった。

彼女にはなんども「変わった」と言われたが、当時の僕は気づいていなかった。

「好きなものを買ってあげるんだから、僕に従え」と常に思いながら好き勝手していた。
親同士で集まった時には結婚の話もしていたし、

「こんなにホットな俺と別れるなんて無理だ」と自負していた。

今思い返してみると、あの時の僕は「常に一番じゃないとダメだし、どんどん稼ぎ続けてみんなの期待に応えないといけない」と思い込んで、それがいつしか物凄いプレッシャーになっていたし、収入は上がって行ったけど、稼げなくなる事を想像するといつも物凄く不安になっていた。僕はその不安を消す為にお酒で紛らわせていたのかもしれない。

「人は失う事に対してすごく恐怖心を抱く動物」なのだと、この時に学んだ気がする。

彼女にトドメを刺される。

しかしその日は訪れた。

彼女から別れを切り出されたのだ。

彼女は「ユーキは辛い時は頼ってくるのに、楽しい時はいつも他の人と過ごしてる。それにあの日に迎えに来てくれなかった時からもう別れる事は決めてたから…」と言った。
そして、僕が仕事しかしてこなかった3年間いつも寂しい思いをしていた事を告げられた。

しかし最初は冗談だと思った。なぜなら

当時の月収は最高潮、

「お金で苦労し、お金に夢を見て、お金を信じ続けた」僕には到底理解できなかった。

しかし彼女は本気だった。

「え?こんなにお金あるのに?こんなに稼いでるのに?」

その時、彼女が月に100万円生み出すサイトが飛んで震えながら落ち込んでる僕に

「お金なんてなくても私はユーキを愛してる。私が愛しているのはお金じゃなくてユーキ自身って言ってるでしょ?」と言ってくれた事を思い出した。

彼女は最初から大金なんて必要としていなかったのだ。

涙が枯れるまで泣き、声が枯れるほど謝り続けた。
しかし、彼女は振り向いてはくれなかった。
とても優しかった彼女の母にも「これ以上うちの娘に関わるのはやめてください」と言われた時は、彼女を取り戻すのは「不可能」だと悟り、放心状態になった。

僕は彼女を失って初めて、心の中でどんなに愛していても相手に伝わらなければ全て意味が無いという事と、「心の支えになってくれる人が側にいる事の大切さ」そして「お金だけじゃ人の心は買えない事」を思い知らされた。

何人かの女性に言い寄られてはいたが「この人は僕にお金が無くても一緒にいてくれるのか?」と思うと、貧乏な頃から僕を支えてくれた彼女の事が頭に浮かび、新しい彼女なんて作る気になれなかった。

その時、彼女だけではなく貧乏だった頃に仲の良かった地元の友達とも仕事ばかりしていたせいで連絡もしてなかったし、周りにいるのは「僕といれば奢ってもらえるから」との理由で遊んでいた「友達という仮面を被った人間」だけだった。
大学のタイ人の同級生もみんな卒業して地元に戻り、韓国人やミャンマー人の友達も母国に戻っていたので、僕は完全に一人ぼっちになった。

お金だけを追いかけて来ていた自分のせいだった。

鬱の人に1億円渡して見ると・・・?

彼女の居ない部屋に戻る事すら怖かった僕は、駐車場に停めた車にエンジンを掛け、ヘッドライトを消して、座席を倒して寝る日が続いた。
その時の心の中には「稼げなくなる事の恐怖と孤独感」しかなく、誰の声も聞こえない空間にいると頭がおかしくなりそうだった。

画像:泣きすぎて前が見えずに階段で転んだ時に情けない姿を撮った写真

そして、もう一人暮らしが無理だと思った僕は、実家に引きこもるようになった。
毎月何もしなくても数百万円振り込まれてきてたけど、何も嬉しくなかった。
(振り込まれたアフィリエイト報酬は、すでに1億円を超えていた。)

「うつ病の人に1億円あげれば治る」というのをよく見かけたが、全然そんなことなかった。

僕は「一緒に使う人がいないとお金は沢山あっても幸福度には繋がらない」と知った。

そして、約3年間1日も休まなかった僕が、記事を書かなくなった。

要は「何の為に稼いでいるのかが分からなくなった」からだ。

僕は彼女との思い出の写真を朝から夜まで眺めては涙を流し、ブロックされたFacebookのメッセンジャーにタイ語で「居なくなって初めてあなたの大切さを知りました。幸せになって下さい。今まで本当にありがとう。」と送った。

(その後彼女は新しい彼氏と結婚して子供を作り、幸せに暮らしている。)

何度も死のうと思ったが、母の悲しむ顔を思い浮かべるとどうにか踏み止まれた。

僕を救った母の言葉

毎日ほぼ何も食べずに実家に引きこもり、誰とも喋らない日が続いていた。

そんなある日、他に相談できる人がいなかった僕は母に慰めてもらった。
苦労してきた母に「チェンライ(タイの実家)で1番の大豪邸を建てて、ママは毎日エステに通い、世界一幸せな母親にしてあげる!」と意気込んでいた僕はこんなんじゃダメだと思っていたが、もうそんな事を言う気力もなかった。

泣きながら苦しんでいる僕の顔を見た母は

「ユーキ、普通でいいよ。一番にならなくてもいいんだよ。ママはユーキが居てくれればそれで幸せだよ。」と言った。

その瞬間、「人一倍稼がないと幸せになれないし、誰も幸せにできない」と信じ続けていた僕の背中から何か重い物が落ちた気がした。

この一連の出来事で僕は「お金だけに固執しない人間」になろうと決心したのと同時に、人生とは何かを考えるきっかけになった。

画像:神なんて信じた事なかった僕が、お母さんに進められて神に心の安らぎを求めて買ったナマズ23匹を湖に逃がしている様子。

(タイではお参りの時に鳥や魚を自分の年の分だけ逃がす文化があります。)

人生の葛藤

ここであなたにも、一つ考えてみて欲しい。

「あなたはもし通帳に1億円が振り込まれてきたら、残りの人生をどう過ごしますか?」

すぐに答えが出てくる人は滅多にいないと思う。

僕はド田舎の実家に引き篭もっていたので一日の生活費なんて1000円も行かないし、欲しい物もなくなっていたので、働かずに死ぬまでゲームをしててもいいし、寝ててもいいのだ。

僕は、誰もいない自分の部屋で有り余った時間を全て「今後の人生の使い方」を考える時間に注いだが1人では答えを見つける事は出来なかった。

そんな僕は歳がひとつ上のマナブさん(@manabubannai)に出会った。

画像:香港のBARにて

価値観が近くて意気投合した僕たちはお互いの昔の事や未来の事を話しながら一緒に色んな国を回った。当時の僕は海外に殆ど友達がいなかったので、いつ旅行に誘っても一緒に行ってくれる彼の存在は僕を実家引きこもり生活から外に出ようと思ったキッカケになった。

そして僕の人生の転機はこの頃から始まり、バンコクで運命の出会いが訪れる。

僕の夢

目標も何も無かった僕は「不労所得でも作ってもっと楽に生きよう」と思い、不動産を母親から買い取って利回りなど計算しながらシェアハウスでも作ろうと思ってマナブさんに相談したところ、彼が不動産見学したい人を集めてくれた。

画像:シェアハウスにする為に買った物件(リフォーム中)

偶然チケットを取り間違えてバンコクにいたケースケさん(@Keisukexlife)が参加していた。彼もまた僕と同じ(当時)25歳で学生起業をした経験があった。

僕たちは行きのタクシーで2人きりになったので、僕は答えの出なかった「生きている間にやりたい事」を聞いてみた。「どうせ適当な返事が返ってくるんだろうな〜」と思っていた矢先、彼は目をキラキラさせながら

「そんなのあり過ぎて答えられない」

と僕に言い放った。

衝撃を受けた僕は、彼との会話を食い入る様楽しんでいた事を、今でも鮮明に覚えている。

その時が僕の目が覚めた瞬間だった。

僕は「人生の意味」を探そうとしていたのでは無く、「人生に意味は無い事」を証明しようとしていただけだった。

画像:ケースケさんとの写真

その1ヶ月後、彼を筆頭に「iSara」というフリーランス・起業家コミュニティーを作った。(イサラはタイ語で自由という意味)

不労所得くらいの軽い気持ちで作ろうと思っていたシェアハウスも、iSaraの拠点にする事になったので当初2週間だったリフォームも気づいたら2ヶ月を要し、途中からリフォーム費用も計算せずに納得の行くまでこだわった。

画像:シェアハウス完成

僕は「会社に縛られずに自由に生きる事のできる仲間を増やして、その仲間達と死ぬまで学生の様に生きて行きたい」と思いながら活動を続ける事約1年、僕がオーナーをしているシェアハウス(iSaraHouse)には絶えず仲間が遊びに来る様になり、友達が少なかった僕は「今が人生で一番友達がいる事」に気が付いた。そして「誕生日サプライズを受ける」という夢も叶っていた。

シェアハウス(iSaraHouse)ではみんなが自由に過ごし、共に生活していていく中で、僕は「価値観の合う仲間の存在が人生の幸福度をとてつもなく上げてくれる事」を知りました。

画像:シェアハウスの様子

画像:仲間達との思い出


(写真右から初期メンバーの、マナブさん、ケースケさん、僕(ユーキ)、ショーへーさん)

僕が利益を考えずに作った場所(シェアハウス)ではみんなが心地よく生活し、人と人が繋がる場所となり、iSaraでは自分の力で稼げる人が稼げな人に方法を教える姿、案件が余ってる人が必要としてる人にそれを降ったりする姿を見たりしていると、

僕は、誰かの為に何かをする事、そして分け与える事はとても心地のよい事だと気が付いた。

ツイート:兄弟2人と母が3年ぶりくらいに再開する為に僕が旅費を出してタイ旅行した時の様子

僕はこの経験を通して、「自分の幸せを他人に分け与えて行く事が人生」なのだと思った。

世の中にはまだまだ貧富の差もあるし、人生に疲れてる人も沢山いる、そんな「幸せ」を必要としてる人たちの為に人は「幸せ」になる必要があり、その幸せを分けてあげる事が人に生まれた意味だと僕は思う。

僕は今、控え目に言って超幸せです。

だから僕は本気でこの幸せを日本中、

いや、世界中に届けたい。

僕はこのiSaraを通し、そしてタイ人という背景を生かし、もっと、もっと、もっと沢山の人の「生き方に選択肢を増やす事」そして、「自由」と「幸せ」を得るキッカケを与えられる様に全力で頑張ることを決意し、まずはアジアでNo.1のフリーランス・起業家コミュニティーを目指しています。

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僕が伝えたい事

かなり長くなってしまいましたが、僕が伝えたかった事をまとめてみます。

僕の様に勉強が全然できなくても人生を変える方法はいくらでもある事を知って、自分なりの目標を持って、それに怖がらずに挑戦して欲しい。

僕の様にイジメや人間関係で会社内や学校内で苦しんでいる人は、世界は広い事と、あなたの居場所は他にあることを知って欲しい。

そして流される様に生きるのでは無く、自分の人生は焦って決めてもよくはならないので、休学や浪人をしてもいいので「ゆっくりと自分の人生を考える時間」を作って欲しい。(僕はもう一回人間として生まれられるなら浪人すると思う。)

当たり前の事なんて何も無い、人は人に支えられて生きている事を忘れないで欲しい。

精神がボロボロになった時期はありましたが僕は自分の決断や、やってきた事に1ミリの後悔もありません。それは何度失敗しようと常に本気で自分の人生と向き合って来たからだと思います。一度きりの人生なので、自分の決断に後悔しない生き方をして欲しい。

そしてどんなに辛い過去だって、過ぎてしまえば全て話しのネタ(笑い話)になる事を知って、辛いことを乗り越えて欲しい。
(今回はシリアスな感じに書いて見ましたが、普段は面白おかしく自分の過去を話しています(笑))

そしていつかあなたが幸せだと感じた時には、その幸せを誰かに分けてあげて欲しい。

僕は今、昼過ぎの心地良い風を肌で感じながらこの文章を書いていますが、僕は夜逃げをした頃から最近までずっと「もう人間として生まれてくるのは嫌だ」と思っていました。しかし色々な経験を通じて、今では心の底から「もう一度人間として生まれたい」と思える様になりました。

自分の利益しか考えない人ばかりの世の中(悪い事だと言っている訳では無い)に少しでも「自分の幸せを分け与えられる人」が増えることを祈りつつプロフィールを終わらせて頂きます。

ここまで読んでくれた方へ:貴重な時間を僕のプロフィールを読む為に使って頂き本当にありがとうございます。もし共感していただけたら僕のTwitterをフォロー、そしてこの記事をシェアしてくれると本当に嬉しいです。

↑画像:シェアハウスの壁